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Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出

《第12回》一流店

文/赤木曠児郎

  • 情報掲載日:2021.07.23
  • ※最新の情報とは異なる場合があります。ご了承ください。

岡山市出身で、パリを拠点に活躍されていた洋画家・赤木曠児郎先生。

エッセイ「Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出」を『オセラ』にご寄稿いただいておりましたが、去る2021年2月15日に、ご逝去なさいました。

このコーナーでは、赤木先生を偲び、本誌で掲載されたエッセイを1編ずつ紹介していきます。ご功績を振り返り、在りし日のお姿に思いをはせてみませんか。

※掲載文章は連載当時のものです

《第12回》一流店

日本の習慣では、一流店というとデパートを思い浮かべるが、フランスでは全然違っていて、有名個人商店のほうが格式高く存在するのである。

今でこそブランド商品がはんらんし、旅行案内書などで日本でも知られてきているが、最初は随分戸惑った。

パリに来て最初にフォーブル・サントノーレ通りという、世界的に定評のある高級商店通りの端の方に、屋根裏部屋のようなスタジオながら住める幸せに恵まれた。

大統領官邸、内務省、各国大使公邸などが軒を連ね、ランバン、エルメス、カルダンといったオートクチュールの店や、一級画廊、骨董商、香水店など世界に名の通った店が、この通りに集まっていた。

ルイ14世がベルサイユに王宮を遷したとき、パリ市から城門を出てベルサイユに向かう道筋がこの通りだったので、17世紀の当時の貴族たちがこの道の両側にパリ別邸のお屋敷を構えたのが始まりである。

18世紀には左岸のサンジェルマン地区に向け橋や新しい道路ができ、そちらにパリ屋敷を持つようになり、19世紀には現在のモンソー地区にブルジョア屋敷を構えるようになった。

屋敷というのは「ホテル」と呼ばれるが、お城のようなもので、裏には大きな庭があり、本館の主人の家族を中心に、家令、下僕、御者、女中などの家族まで、周りに集まって住んでいた。道路に面した棟には門番家族が住み、商人にも貸して収益を計った。

そんな馬具屋の店子がエルメスになり、旅行鞄屋がルイ・ヴィトンになり、洋服屋がオートクチュールになった。家具骨董商や香水商などもそうだが、貴族屋敷の住人相手の小間物屋や商店が集まり、現代までも続いているのがこの通りであり、世界の一流店の定評と認識が生まれたのである。

先日、外で絵を描いていて三脚椅子の金具部分が折れた。この通りにある高級狩猟用具専門店で、狩猟用に使うかなりいいものを見つけて求めていたのだった。

誰に相談しても「オシャカだね」と答えるのだったが、皮の部分はまだしっかり上等で、買った店に相談したら「修理アトリエがあるから持ってらっしゃい」と言う。簡単に二週間で修理されて、さすがフォーブル・サントノーレの店だと感心した。

昔住んでいた頃、仕事をよく頼んでいたカメラ屋の、品のいい女性店長さんが話してくれたのを思い出した。「この地区で店を持つのは大変で苦労が多いです。庶民地区の店の方が、商売はよほど楽です」と言うのである。

「金持ち地区では暇や時間があるから、少しでも不備や故障があると持ち込んできます。庶民地区だと時間もないし、安物で運が悪かったとあきらめて、次を買います」。

衝動買いをそそるような安っぽい新デザインなどは扱えない。クラシックで変化がないようだが、間違いのない最高品質でなくてはならない。

「捨てさせろ、買い替えさせろ」なんて目標を掲げているところからは、絶対に一流店やブランドは生まれないのだと思い知らされた。

『日本通り』
(油彩/100x81cm)2020年

『オセラ』104号(連載第9回)に載せた素描原画、『日本通り(Ⅰ)』が、やっと油彩に出来上がった。私の油絵は細い線で覆うので、外の現場で直接描くわけにいかない。持ち運びには大きい作品だし、埃を嫌う。それでまず、手頃なサイズの画用紙の上に設計図のように、対象の風景の線をペンで決め、彩色もメモして現場で完成させる。それをアトリエに持ち帰り側に置いて、今度はキャンバスに向かって油彩作品の制作をする。デッサンの黒い線が、なぜ赤い線になるのか自分でも説明ができないし、何の色でもよいわけだが、赤い線でまとめるのが気に入っている。白い線にすることもある。設計図にあたる黒い線の下絵が完成すると、余りに多くの人が「このままで美しいから色を入れるな、もったいない。このままおいて置け」と言ってくれる。それで単色の線の積み重ねだけでも作品が出来上がるのでは、と思ったのがヒントだった。素描原画の方も、長い時間をかける貴重な解剖図作品として、愛好してくださる方もある。

赤木 曠児郎(あかぎこうじろう)

洋画家。1934年、岡山市下田町(現・岡山市北区田町)生まれ。

第2次大戦後、岡山市東区西大寺で暮らす。岡山大学理学部物理学科を卒業して東京へ。

その後フランスに渡り、現在はパリ在住。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。輪郭線を朱色で彩った独特の画法が特徴で、「アカギの赤い絵」として名高い。

40年以上描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても評価されている。

ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。そのほか、フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞なども受賞。

またファッション記者としても活躍し、プレタポルテを日本に初めて紹介。ジバンシイやバレンシャガなどの多数のブランドが初めて日本の百貨店に出店する際にも橋渡し役として活躍したことでも知られる。

2021年2月永眠。

オセラNo.107(2020年8月25日発売)掲載より

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※掲載の情報は、掲載開始(取材・原稿作成)時点のものです。状況の変化、情報の変更などの場合がございますので、利用前には必ずご確認ください

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