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Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出

《第9回》洋服職人時代と退職後

文/赤木曠児郎

  • 情報掲載日:2021.07.02
  • ※最新の情報とは異なる場合があります。ご了承ください。

岡山市出身で、パリを拠点に活躍されていた洋画家・赤木曠児郎先生。

エッセイ「Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出」を『オセラ』にご寄稿いただいておりましたが、去る2021年2月15日に、ご逝去なさいました。

このコーナーでは、赤木先生を偲び、本誌で掲載されたエッセイを1編ずつ紹介していきます。ご功績を振り返り、在りし日のお姿に思いをはせてみませんか。

※掲載文章は連載当時のものです

《第9回》洋服職人時代と退職後

家内はジバンシー社に入り、実際の実技を習得する立場になった。

ブルーカラーの社会最下級層の労働者。見栄を張り体裁を気にする人には、なかなか決心のいるところに飛び込んだのである。

いっぽうでわたくしは、日本に独占契約をする大丸デパートの現地契約アシスタントでお客さま側だったので、不思議なカップルだったが、両側から知識を得られる便利さも気に入っていた。

ジバンシー社がまだ兄弟家族経営で、兄の方が経営に当たっていた間、日本の業界のことについてなんでも相談を受けるような好関係になって、大丸にとっても便利がよかった。

シャンペンのヴーヴ・クリコ社にジバンシー社が買われ、それがまたルイ・ヴィトン社に買われ、外から雇われた支配人が経営するようになってからは変わったが、家族会社だった20年間くらいは、信頼され自由に店に出入りし、業界のことを耳にして記事にも書いていた。

バレンシャガのスーツは、パリでも評判の高いものだったので、家内をバレンシャガ社のアトリエに移籍させ、一年間修業させた。

その後再びジバンシー社のアトリエに戻ったのだが、いろいろな職人親方のアトリエを体験できたのは、わたくしの立場があったからだ。

普通の職人の世界ではありえないことで、ひとりの親方に就いたら一生抜け出せない。親方とともに移動していく料理人の世界もそうだが、洋服職人の世界も同じである。

職人たちの世界の連帯というのは、洋の東西を問わず強固なもので、仲間に入ることでいろいろな考え方を見ることができた。

時が過ぎ、社内労組代表のひとりが、早くに定年退職獲得を望み、社内の一定年齢以上の全員についてまとめて交渉。早期退職の年金権利を有利に獲得し、一斉退職した。外国人労働者のひとりでは、とても不可能なことだったと今でも思う。

以来、家内は自由に暮らした。

パリの洋服の職人技術を覚えるために入った社会なので、わたくしのファッション記者としての仕事を手伝うことはあったが、針仕事を生活のためにすることはなかった。

晩年の家内は、料理にずいぶんと凝っていた。オートクチュールのしきたりを守る心構えと、料亭の世界には共通点が大変に多い。

友人を招いて会食しても、「『料亭アカギ』のようだ」と言われるようになって、本人も気に入っていた。

ナプキンやテーブルクロスをそろえ、順序としきたりを大切に何日もかけて準備し、またひとりで片付ける。

大皿にたくさん盛って並べて、各々が自分で取り分ける。そんなパリ駐在員の家庭で出会うような方法など、絶対に受け付けなかった。

わたくしに同行した旅行先で会食に招かれることも多く、自分で見て、料亭のご主人にも直接質問して覚えていった。

ファミレスで子どもを交えて食事をガタガタ済ませるなど、我慢ならない人だった。

亡くなる3カ月前まで日本に旅行し、92歳ながらゆっくり咀嚼して普通に食べて、好物の日本酒を飲んでいたので、驚かされていた。

『日本通り(Ⅰ)』
(素描原画/48x36cm)2019年

パリには5500に近い通りや広場があるが、すべてに名前が付けられ、番地が振り付けられている。人名や地名が使われることが多い。『通り名事典』という辞書もあって、ちょっと調べれば由来や年代もすぐわかり、今ならSNSですぐ見られる。もちろん「Rue du Japon(日本通り)」という通りもある。どこだろうと興味をそそられるが、パリの20区、東の外れの庶民地区だ。このあたりを開発したディベロッパーが、一帯に東洋の国の名前を当てたので「中国通り」「カンボジャ通り」などもあり、別に深い理由はない。1867年(慶応3年)に開かれた道で、1892年(明治25年)に都市計画が変わり、もっと長いはずが現在のような形で残った。長さ115m、幅15mの通りで、一方は20区役所の裏側全面、反対側は公園、「中国通り」と並行している。現在はバス路線の発着所になっていて、番地も住居もない通りなので、少しがっかりする。

赤木 曠児郎(あかぎこうじろう)

洋画家。1934年、岡山市下田町(現・岡山市北区田町)生まれ。

第2次大戦後、岡山市東区西大寺で暮らす。岡山大学理学部物理学科を卒業して東京へ。

その後フランスに渡り、現在はパリ在住。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。輪郭線を朱色で彩った独特の画法が特徴で、「アカギの赤い絵」として名高い。

40年以上描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても評価されている。

ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。そのほか、フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞なども受賞。

またファッション記者としても活躍し、プレタポルテを日本に初めて紹介。ジバンシイやバレンシャガなどの多数のブランドが初めて日本の百貨店に出店する際にも橋渡し役として活躍したことでも知られる。

2021年2月永眠。

オセラNo.104(2020年2月25日発売)掲載より

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