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Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出

《第7回》パリの生活の始まり

文/赤木曠児郎

  • 情報掲載日:2021.06.18
  • ※最新の情報とは異なる場合があります。ご了承ください。

岡山市出身で、パリを拠点に活躍されていた洋画家・赤木曠児郎先生。

エッセイ「Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出」を『オセラ』にご寄稿いただいておりましたが、去る2021年2月15日に、ご逝去なさいました。

このコーナーでは、赤木先生を偲び、本誌で掲載されたエッセイを1編ずつ紹介していきます。ご功績を振り返り、在りし日のお姿に思いをはせてみませんか。

※掲載文章は連載当時のものです

《第7回》パリの生活の始まり

パリに行ったら情報を送ってくださいと頼まれた会社があった。

ホテルに2カ月いた後、会社のパリ連絡所として、端っこの方ながらフォーブル・サントノーレ通りに住めることになった。

その会社はマネキン人形を製作したり、ウィンドウ装飾器具をデパートに納めたりしていて、パリのウィンドウ装飾の写真を撮って送るのも仕事だった。

当時はまだそんな情報でも貴重で、日本で大変に求められていた。フランス大統領官邸、英米大使公邸のお屋敷、エルメス、ランバン、一流店がみんな同じ通りの隣組になったのである。

現在の日本大使公邸が引っ越してきたのは、数年後だった。

自分のところは屋根裏みたいなものだったが、そんな通りに住む日本人がいるというだけで目を丸くされた。

シャンゼリーゼ大通りもすぐそばで、夜カメラを提げて出るだけで写真が撮れた。

夏休みの季節になり、偶然近所で出会ったのが、大丸デパート東京店のディオールオートクチュールサロン主任の上原愛先生だった。東京のディオールショーで、ベルモードが帽子製作を担当していたから知り合いだったのである。

先生は新作発表コレクションに出席し、日本にふさわしいモデルを選んでオーダーを出し、出来上がって持ち帰るまで1カ月近くホテルに滞在して、日本の本社へのレポート作成や、材料そろえの仕入れ準備をしていた。今考えると嘘のような、悠長で優雅な時代だった。

その上原先生が、ディオール社に連れて行ってくださった。

サロンの受付にいたフランス女性が日本語が少しわかり、神戸生まれとのこと。

話していると、先日まで同じ船で隣のテーブルにいて親しくなったフランス人神父さまが、この人の名付け親だとわかった。

第二次大戦前から神戸にいて、日本語もペラペラなパリ外国宣教会の神父さまで、夏休みをフランスで過ごすために船で往復しておられたのだ。

5、6人の同僚の方も一緒で、船中、フランスは神父さままで優雅な国だなと驚きだったのである。

受付の女性が「何してるの?」と聞くから「すべて見学中」と答えた。

「奥さんも何か勉強した方がいいよ」「それなら、婦人帽子を作っていたから帽子でも」「やめときなさい。かぶっている人はもういなくなった。洋服をやりなさい」

とのことで、パリオートクチュール組合立の洋裁学校を勧めてくれ、家内はそこの外国人高等科に通うことに決めた。自分は国立の美術学校をねらうことにした。

日本と違い、9月が新学年度の始まりである。フランスの国立大学では平等に誰でも学べるようにと授業料は驚くほど安く、その上に奨学金、住居、健康、食費にまで助成措置がある。

ところが私立の実務学校や塾となると、目玉の飛び出るほど授業料が高い。ただしこちらは卒業すれば採算の合うくらいの就職先がある。

とにかく、手持ちのトラベラーズチェックを全部出して、家内の入学金だけは払えた。

明日からどうなるか不安なものだった。

『モンマルトル新名所・ダリダの家』
(油彩/55×46cm)2019年

ダリダは1933年に生まれ1987年に54才で亡くなった、エジプト生まれのイタリア人で、シャンソン歌手である。長身の美人で、派手なファッションで現れ、少し甘い訛りのあるフランス語で大人気の歌手だった。モンマルトルの丘の中腹にある、この家に長く住んでいた。東の20区がエディット・ピアフやモーリス・シュヴァリエを土地の歌手として讃え、広場の名前を付けて呼び物にしているが、18区のモンマルトルの丘は、近年ダリダがアイドル歌手である。広場が命名され、銅像までできている。もちろん、この家の門前も欠かさずに観光ガイドが案内し、旅行者が次々にやってくる。

赤木 曠児郎(あかぎこうじろう)

洋画家。1934年、岡山市下田町(現・岡山市北区田町)生まれ。

第2次大戦後、岡山市東区西大寺で暮らす。岡山大学理学部物理学科を卒業して東京へ。

その後フランスに渡り、現在はパリ在住。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。輪郭線を朱色で彩った独特の画法が特徴で、「アカギの赤い絵」として名高い。

40年以上描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても評価されている。

ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。そのほか、フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞なども受賞。

またファッション記者としても活躍し、プレタポルテを日本に初めて紹介。ジバンシイやバレンシャガなどの多数のブランドが初めて日本の百貨店に出店する際にも橋渡し役として活躍したことでも知られる。

2021年2月永眠。

オセラNo.102(2019年10月25日発売)掲載より

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※掲載の情報は、掲載開始(取材・原稿作成)時点のものです。状況の変化、情報の変更などの場合がございますので、利用前には必ずご確認ください

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