岡山市出身で、パリを拠点に活躍されていた洋画家・赤木曠児郎先生。
エッセイ「Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出」を『オセラ』にご寄稿いただいておりましたが、去る2021年2月15日に、ご逝去なさいました。
このコーナーでは、赤木先生を偲び、本誌で掲載されたエッセイを1編ずつ紹介していきます。ご功績を振り返り、在りし日のお姿に思いをはせてみませんか。
※掲載文章は連載当時のものです
《第15回》プレタ・ポルテ
高田賢三君が亡くなった。
5歳ばかり年下だが、同じファッションの仕事に携わっていても、とても大きな時代差があったと思う。顔を合わせると「僕はアカギさんがパリに行くと聞いて、うらやましくて仕方なかった」と言うのが彼の口癖だった。
1963年、東京オリンピックが開かれる前年に私たち夫婦はパリに来たのだったが、まだ日本は国民の海外渡航が自由化されてなくて、私費留学生として試験を受けてパスポートがもらえた。
高田君は1965年に海外渡航が自由化された後、早い時に来たのだった。
自分がファッションに興味を持ったのは第二次世界大戦敗戦の直後からで、戦勝国の西欧文化にあこがれたのと、母が洋裁学校を開いたせいもある。
それ以前の日本はモンペに国民服、着物姿が日常だった。戦時中は軍部の統制で配給切符制、品物は常になかった。
敗戦後は生地屋さんや呉服屋さんが町の商店街の有力店で、百貨店でもワンフロア全体にずらりと洋服生地の巻を積んで売っていた。
洋裁店も沢山あって、何メートルかの布地を買って持って行き、衣服に仕立ててもらっていた。靴も町の靴直し店のおじさんに注文して、足に合わせて作ってもらっていた。
最近は美術館で、衣装の回顧展が盛んだが、訳のわからない物を「アート」といって見せられるより、衣装の変遷を見せられるほうが「あー、こんなだった」と、心が慰められるから人気なのだろう。
衣服を仕立ててもらっていた最後の世代に、自分が属していたのだと思う。
世界の情報がわかってくると、「洋服」はパリのオートクチュールが最高峰というのがわかり、お洒落の流行情報という形で広まって行くシステムも知った。
第二次大戦後は、その中でもクリスチャン・ディオールが飛び抜けていたが、あの頃のお仕立て洋服は「鎧兜」といったほうが正しいような気がする。
美しい形、流行の形を作って、その中に体をはめこむのである。芯地を何枚も重ねて、新しい立体の形を創りだすのに工夫を重ねていた。
バレンシャガ、ジバンシー、カルダン、クーレッジュ、サンローランなどまで、天才が続いている。
シャネルだって、本人が生きていた頃の本物は腰のない布地に柔らかい芯地を何枚も重ねてステッチをし、柔らかい「鎧兜」で着心地よくした、手間のかかったものだ。
1960年代に、大革命が起こった。
いちいち仕立ててもらわなくても、既製品で衣服が豊富に手に入るようになったのだ。
以前の既製品衣料というとレインコートやワイシャツのようなものだったが、普通の衣服が次々と作られるようになり、店頭に並び、洋裁店、布地商店が消えた。
新分野として、英語の「Ready to wear」をフランス語にして「プレタポルテ」と名乗ったが、高田君はそちらの側の初代の日本人成功者だった。
デザイン画を描いて、メーカーと相談して企画を練って行く時代に入った第一期の人なのであった。
『僕の地球儀』
(油彩/146x114cm)2020年
世界を表現した曼荼羅(まんだら)のような作品を描いてみたいと始めたが、構想がちっともまとまらず、壁に10年以上掛けたまま手を加えていた。結局、みんな地球の上の営みではないかと、地球儀を買って来てこんな静物画になってしまった。描いてみると国の形なんて、名前だけで知っているようなつもりでも、意外と形にならないから、地理のよい勉強になった。家内と訪れた地名だけ、思い出にと書き込んだ。裏側の国は外空間に名前だけ書き、日本とフランスは多すぎて省略してある。コロナでの外出禁止が幸いというか、外に出られないので出来上がった。
赤木 曠児郎(あかぎこうじろう)
洋画家。1934年、岡山市下田町(現・岡山市北区田町)生まれ。
第2次大戦後、岡山市東区西大寺で暮らす。岡山大学理学部物理学科を卒業して東京へ。
その後フランスに渡り、現在はパリ在住。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。輪郭線を朱色で彩った独特の画法が特徴で、「アカギの赤い絵」として名高い。
40年以上描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても評価されている。
ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。そのほか、フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞なども受賞。
またファッション記者としても活躍し、プレタポルテを日本に初めて紹介。ジバンシイやバレンシャガなどの多数のブランドが初めて日本の百貨店に出店する際にも橋渡し役として活躍したことでも知られる。
2021年2月永眠。
オセラNo.110(2021年2月25日発売)掲載より
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