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Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出

《第14回》1ドル360円の時代

文/赤木曠児郎

  • 情報掲載日:2021.08.06
  • ※最新の情報とは異なる場合があります。ご了承ください。

岡山市出身で、パリを拠点に活躍されていた洋画家・赤木曠児郎先生。

エッセイ「Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出」を『オセラ』にご寄稿いただいておりましたが、去る2021年2月15日に、ご逝去なさいました。

このコーナーでは、赤木先生を偲び、本誌で掲載されたエッセイを1編ずつ紹介していきます。ご功績を振り返り、在りし日のお姿に思いをはせてみませんか。

※掲載文章は連載当時のものです

《第14回》1ドル360円の時代

今の人はもう忘れてしまった大昔だが、固定為替相場制で1ドルが360円と定められ、1949年4月25日から1971年8月15日の金・ドル交換停止まで、22年間続いていた。

自由になった年の年末にはもう308円に価値が上がり、それから上下があって現在は110円あたりになっている。

これはどういうことかと言うと、自由化以前は、日本で1杯100円のコーヒーが、外国では400円近く払わなければならなかったわけで、大変高くつくから飲むのも差し控える。

1960年代に研究留学でパリに来ていた日本の大学教授は、ヨーロッパの同僚に「大学教授の月給はいくらかと」質問されて、レートで計算して答えたら「そんな安い給料で日本の教授は働いているのか」と笑いものにされ、恥ずかしくて答えられなかったと、みなさん随分後まで話しておられた。

初任給1万円がよい方の給料だった敗戦後の日本からすると、欧米の生活レベルはとても高く、海外に住む日本人は慎ましく倹約して学ぼうとしていた。

天皇を抱えた軍部の独裁暴走、敗戦国焼け野原のゼロからの再出発、なんとか独立国に復帰…。世界の一流国に追い付きたく先進国をコピーしながら励んでいたのであった。

オイルショックを乗り越えた頃からだろうか、トランジスタラジオ、カメラ、バイク、いろいろな電化製

品、自動車など、日本製品は安いのに品質がよくて、壊れないし、壊れてもアフターケアが親切という信用が生まれ始めた。

海外に売れるようになると、日本は為替の関係で安い値段で輸出できた。

するとフランスの工業の採算が取れなくなり、倒産したり工場が閉まったりしていくので、「労働条件もかまわず働き蟻のように働く日本人が、わが国の産業を潰す」と、四面楚歌の攻撃も経験した。

円の為替相場もどんどん上がり、入って来る外貨を貯め込み過ぎていると、諸外国から非難の的。

外貨をどんどん使えという風潮で、憧れの団体海外旅行も盛んになった。フランスでは「ノウキョウ」という日本語が「旅行団」だと思われていたほどだ。

一流の個人客ではないが、集団で押しかけてお金を落としてくれる大事な収入源は、現在の中国

のそれより30年早かったということである。

それからバブルがあって、日本が世界を全部買い取れるような気分の時もあった。1960年代の貧しい開発途上国時代に海外にいた日本人は、海外渡航も許可制だったから、ある程度以上の社会層に限られていたこともあって、みんなで助け合って暮らしていた。

円の価値が高くなり、海外旅行や為替が自由化されるに従って、パリの日本人社会も「お金持ちと貧しい人」「使う側と使われる側」に分かれていった。

外国で暮らすと、円の評価が高くなって上昇していくのが理想であると身にしみている。円の為替価値が下がる方が輸出に有利だから、関連会社の株価が上がって、逆に「儲かった」と喜ぶ今の経済が理解できないのである。

『子供の遊び場』
(油彩/81x100cm)2017年

パリの南端の住宅街に、大きな貯水池があって脇に3本の道路が交差する、ガランとした三角ロータリーが古くからあった。ちょうどその辺りの風景をデッサンしていた頃に、アッと言う間に滑り台やシーソーが据えられ、鉄柵で囲まれて子どもの遊び場に変わってしまった。アパートの暮らしで、ベビーから子ども、大人まで一日に一度は外の空気を浴びなければいけないと習慣づけられているパリジャンは、午後のひと時にはぞろぞろと歩く。老夫婦、飼い犬の散歩をする人、ジョギングをする人。公園や広場も沢山あって、ベンチも各所に置かれている。ここは今では、乳母車を押してくる地区の子守りの人たちの集い場である。

赤木 曠児郎(あかぎこうじろう)

洋画家。1934年、岡山市下田町(現・岡山市北区田町)生まれ。

第2次大戦後、岡山市東区西大寺で暮らす。岡山大学理学部物理学科を卒業して東京へ。

その後フランスに渡り、現在はパリ在住。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。輪郭線を朱色で彩った独特の画法が特徴で、「アカギの赤い絵」として名高い。

40年以上描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても評価されている。

ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。そのほか、フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞なども受賞。

またファッション記者としても活躍し、プレタポルテを日本に初めて紹介。ジバンシイやバレンシャガなどの多数のブランドが初めて日本の百貨店に出店する際にも橋渡し役として活躍したことでも知られる。

2021年2月永眠。

オセラNo.109(2020年12月25日発売)掲載より

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