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岡山芸術創造劇場 ハレノワ ~カウントダウン♪ 千日前から

深~い!新劇場「岡山芸術創造劇場」と千日前の誕生物語VOL.4

変わる 街をウォッチング。岡山芸術創造劇場~カウントダウン♪ 千日前から

  • 情報掲載日:2021.08.20
  • ※最新の情報とは異なる場合があります。ご了承ください。

新時代の幕が開けた岡山にエンターテインメントが花開く。~明治時代から大正時代へ~

来る2023年、舞台芸術を「創る」新拠点として『岡山芸術創造劇場』が誕生する表町商店街・千日前。ここにはもともとエンターテインメントを育む土壌があった。明治時代の幕が開けると、表町商店街周辺はさまざまなエンターテインメントでみるみる活気づいていくのです。いったいなぜ?

江戸時代の岡山藩では倹約令が出され、原則的に歌や踊り、楽器演奏などの華やかな芸能活動も禁止されていました。しかし、明治時代に入ると、庶民は200年以上続いたその縛りから解き放たれ、表町商店街周辺に多様なエンターテインメントが楽しめる芝居小屋がぞくぞく誕生します。

岡山市で最初にできたと伝わる芝居小屋は『偕楽園』(現岡山市中区の東山公園)の常設小屋。舞台屋根こそありましたが客席は露店だったそう。次に1877(明治10)年に『旭座』(現岡山市中区西中島町)、ほぼ同時期に『柳川座』(現岡山市北区野田屋町)。さらに『千歳座』、『高砂座』、天瀬可真町の『巴玉座』など本格的な芝居小屋が生まれました。

スクリーンに写真を映し、紙芝居のように場面ごとに弁士が声色を使い分ける「幻燈芝居」も芝居小屋の人気の出し物になっていきます。

1900(明治33)年、のちに「千日前」と呼ばれる天瀬可真町で、芝居小屋『巴玉座』が火事で焼失。跡地広場では珍しい動物の見せ物、軽業(曲芸)、奇術、剣舞、人形芝居、水芸などの興行が頻繁に開かれました。

この頃の岡山の発展は目覚ましく、1891(明治24)年、山陽鉄道・岡山駅が開業。さらに翌年の1892(明治25)年、なんと、表町商店街・上之町(現岡山市北区天神町)に、全国初のテーマパークと言われる『亜公園』がオープンします。

ここでクイズです。「亜公園」は何のテーマパーク?

A.岡山産の果物 B.桃太郎 C.天神様

▲「岡山亜公園の図」(所蔵:岡山県立図書館)。エンターテインメントが詰まっていた『亜公園』。中央の7階建ての「集成閣」は、今で言えば、『東京スカイツリー』のような存在かも。惜しくも13年間の営業で閉園
▲総ヒノキ造りの能楽堂ホール「tenjin9」。現在、『亜公園』の跡地に建つのは「RSK山陽放送」の新社屋「RSKイノベイティブ・メディアセンター」。1階にこのホールを備え、伝統芸能のほか展示会や講演会など多目的に利用できる
▲『甚九郎稲荷』。「RSKイノベイティブ・メディアセンター」の西隣に鎮座。この地は今は天神町だが、以前は表町商店街・上之町だった。境内に商店街の従業員寮だった『上之町会館』が佇む。ご近所猫?にも愛されている
▲甚九郎稲荷にある『亜公園』の石碑と、園内の天満宮から移された巨大な硯岩。『亜公園』を訪れた人々はこの岩を拝んで習字の上達を願ったそうだ

このテーマパークのテーマはその昔、この地に祀られていた天満宮「天神様」(学問の神様・菅原道真ですね)。

芝居小屋『天神座』をはじめ、芸者やミュージシャンを呼べる料亭、湯屋、ビリヤード場、甘味処、和菓子屋、写真館、小間物屋など30軒前後が軒を連ねていました。

なかでも話題になった『亜公園』の目玉は、当時としては超高層の木造7階建て展望タワー「集成閣」。遠くは瀬戸内海まで見渡せたといいます。

そして、庶民の娯楽は、映画の時代へ。明治30年代になると幻燈芝居にとってかわり、「活動写真」(無声映画)が大人気に。1911(明治44)年、岡山市初の映画常設館『世界館』​(現岡山市北区野田屋町)が誕生します。

さらに交通網が整備され、翌1912(明治45)年に路面電車が開通。同年、天瀬可真町に映画常設館『帝国館』​が生まれます。映像に合わせて活動弁士が軽妙に語り、楽団が和洋の楽器で生演奏をする活動写真は、昭和初期まで上映されていました。

天瀬可真町こと、千日前といえば、あの世界3大サーカスのひとつ、「木下サーカス」の発祥地! 千日前が岡山一の映画館街として栄えた背景は、明治時代から当地に拠点を置いた「木下サーカス」の存在なくして語れません。

実は、旧岡山城下で本格的な芝居小屋の先駆けだった『旭座』は、後に「木下サーカス」として名を馳せる木下家が営んでいました。

「木下サーカス」初代団長となる木下唯助について少し書いておきます。​

唯助は、もともと四国の巡回動物園を率いていたのですが、その頃、 動物の曲芸などで話題をさらっていた欧米の曲馬団が来日。公演にヒントを得た唯助は、1902(明治35)年に中国・大連で「木下サーカス」を旗揚げします。​

1904(明治37)年、一行がロシアから岡山へ帰還。千日前で凱旋公演を行ったようです。1905(明治38)年、縁あって、唯助は『旭座』創始者・木下藤十郎の養子になります。​

1909(明治42)年、『旭座』は、新聞社の読者招待会で活動写真を上映。大盛況を収めます。​
1919(大正8)年、唯助は「千日前に自ら建てた映画館を」と考え、『帝国館』の目と鼻の先に『金馬館』(のちの『岡山日活』)をオープンします。​​

続いて1926(大正15・昭和元)年にも映画館『若玉館』(のちの『テアトル岡山』)を千日前に開設。これらの館名はサーカスの公演で大人気の馬とゾウの名にあやかって付けたそう。

さらに映画を見た後もゆっくり楽しめるようにと、付近に旅館や料理屋、銭湯なども建設。こうして千日前は岡山の一大歓楽街へと変貌していくのです。

▲『金馬館』。オープン当時の洋風外観がモダン(左)
▲千日前の人混みで賑わう、昭和3年の『若玉館』(右)
(いずれも写真提供:木下サーカス)

昔の事に通じている地元の人によると、​「昔、表町では(サーカスの)動物の鳴き声が聞こえていた」という話も…。それが動物を調教している時なのか、公演の時なのかはわからないそうですが、当時の商店街の人々にとってサーカスはもっと身近な存在だったかもしれません。

「木下サーカス」はエンターテインメントを手掛ける『木下興行』として、昭和に入ってからは千日前に映画館の『ニュース文化劇場』や『白鳥座』も開館。映画館の絵看板やネオンに彩られた千日前は、活気にあふれました。

現在、歴史と文化が豊かな千日前で建設が進む『岡山芸術創造劇場』。令和の時代に、「まち」にどんな新風を吹かせるのか…。新劇場の完成が待ち遠しいですね!

さてさて、次回は昭和の時代から千日前界隈にタイムトリップしてみましょう。お楽しみに!

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