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Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出

《第3回》家内との出会い

文/赤木曠児郎

  • 情報掲載日:2021.05.21
  • ※最新の情報とは異なる場合があります。ご了承ください。

岡山市出身で、パリを拠点に活躍されていた洋画家・赤木曠児郎先生。

エッセイ「Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出」を『オセラ』にご寄稿いただいておりましたが、去る2021年2月15日に、ご逝去なさいました。

このコーナーでは、赤木先生を偲び、本誌で掲載されたエッセイを1編ずつ紹介していきます。ご功績を振り返り、在りし日のお姿に思いをはせてみませんか。

※掲載文章は連載当時のものです

《第3回》家内との出会い

婦人帽子店『ベル・モード』で弟子仕えをしている間に、アトリエで職人だった家内と親しくなるのは、時間がかからなかった。同じ郷里の岡山同士で、次々と話していると共通の知人まであった。

岡山にいる頃わたくしは、母にねだっては服を縫ってもらって、少し人とは変わった格好をしていた。

「えーなー、家が洋裁屋だから」と羨ましがられていたが、心の奥には何か満ち足りない不満があった。母のところは婦人服の洋裁学校、家庭裁縫だから、似ているようでいて、プロのテーラード仕立てのものとは何かが違うのである。

プロのものが着たかった。プロはプロ、アマチュアはアマチュア。パリに来て住むようになってこの町の気に入っているところは、人々の目が厳然と区別のあるところである。

下手でもプロとなると尊敬して取り扱われ、自然努力して励まざるを得ない。いくら上手でもアマチュアと宣言すると、アマチュアなので謙遜は一切通用しない。

東京暮らしの始まった頃、お嬢さま芸でない、プロの腕に耐えて付いてきてくれそうなのが、家内だった。

定職も所得もなく、どうなるかも未定のわたくしと、子どものできない体質とかで、一度結婚に失敗し、自活の道を求めている家内。お互いの条件が一致していたのだとしか、今考えても言うほかない。

結局パリまで一緒に来て、60年を一緒に暮らすことになった。

当初、母が東京まで飛んできて引き離そうと説教したが、同棲生活が始まり、家内は『ベル・モード』を退職した。

わたくしは絵も描き続けて、銀座の画廊で個展も開き、帽子や洋服の注文を取って来たり、雑誌から依頼される洋服デザイナーの作品に合わせた、撮影用帽子アクセサリーの制作・貸し出しを行なったりした。

その仕事の裏方を、2間の借間暮らしで、家内がこなしてくれていたのだった。

『ベル・モード』には、パリから毎シーズン何点かの素晴らしい帽子が輸入されて、デパートの仕入れ部長さんたちや、有名なデザイナー先生たちも勉強のためと訪ねてみえ、シーズンの発表ショーは毎回大賑わいだった。

もちろん主賓は注文をくださるお客さまで、皇室ご用達、東京の外国外交官夫人たちが対象。

先生の助手として準備や演出、ウインドウの装飾もいつの間にかわたくしの担当で、プレス応対もかねて、その頃の東京の最高の勉強をさせてもらった。

日曜日にはデパートを巡り見学、銀座に住むのが夢だった。

1958年、NDK(日本デザイン文化協会)がピエール・カルダンさんを日本に招待して、オートクチュール技術講習会を開いたのは、画期的な出来事だった。

2日ずつ3回、講習会のコースがもたれたが、あまりに受講料が高いので父にねだったら、国鉄職員だった父が上京してきて、NDKに確認のうえ受講料を払ってくれた。

1週間べったりとカルダンさんにくっついて回ることができラッキーなことだったが、母の洋裁学校があったから、こんなことも許されたのだったと今思う。

それから洋服の立体裁断に興味を持ち、週末は青山の原のぶ子先生のところに勉強に通うことになった。先生のご主人は、原勝郎さんと言って、1930年代にパリで絵の勉強をされていた画家さんだった。

『アールヌーボーの建物』
(素描原画/48×36cm)2017年

建物にはいろいろな流行とスタイル様式があって、外から形を見ただけで、だいたいいつ頃の時代のものか見当がつく。19世紀の終わり、20世紀の始まりにかけてヨーロッパで新しかったのが、直線は否定して植物の枝や蔓(つる)のような曲線の流れを使う、アールヌーボーと呼ばれるデザインで、10年ばかり大流行した。ガラス器のエミール・ガレやティファニーの流れるような製品は、日本人が大好きである。開発された時代の関係で、パリの16区や7区の建物に、このスタイルのものが見られるところがあるが、このデッサンは15区にたった一軒あるアールヌーボーの建物と言われている。

赤木 曠児郎(あかぎこうじろう)

洋画家。1934年、岡山市下田町(現・岡山市北区田町)生まれ。

第2次大戦後、岡山市東区西大寺で暮らす。岡山大学理学部物理学科を卒業して東京へ。

その後フランスに渡り、現在はパリ在住。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。輪郭線を朱色で彩った独特の画法が特徴で、「アカギの赤い絵」として名高い。

40年以上描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても評価されている。

ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。そのほか、フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞なども受賞。

またファッション記者としても活躍し、プレタポルテを日本に初めて紹介。ジバンシイやバレンシャガなどの多数のブランドが初めて日本の百貨店に出店する際にも橋渡し役として活躍したことでも知られる。

2021年2月永眠。

オセラNo.98(2019年2月25日発売)掲載より

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