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岡山芸術創造劇場 ハレノワ ~カウントダウン♪ 千日前から

深~い!新劇場「岡山芸術創造劇場」と千日前の誕生物語VOL.7

変わる 街をウォッチング。岡山芸術創造劇場~カウントダウン♪ 千日前から

  • 情報掲載日:2022.01.13
  • ※最新の情報とは異なる場合があります。ご了承ください。

戦後の混乱期を乗り越えて① 映像文化で地域に夢と希望を届けた千日前映画街。

2023(令和5)年のオープンに向けて、岡山市表町商店街・千日前で着々と建設が進む『岡山芸術創造劇場 ハレノワ』。舞台芸術の発信地となるべく、その誕生に大きな期待が寄せられています。

今回も千日前周辺の昭和時代にタイムトリップ!

このエリアは、戦争が暗い影をもたらした時期でも、文化&芸術を発信し続けて人々に元気を与えてきた街でした。

▲堀に囲まれた『烏城公園』。岡山大空襲で焼失した岡山城の跡地を、展望できる公園として整備。1957(昭和32)年のこの時点ではまだ、天守閣は再建されていなかった。その奥に見えるのが日本三名園のひとつ『岡山後楽園』(画像提供/岡山県立記録資料館)

「千日前は私の生きざまそのもの。生まれた時からここを拠点にずっと生きてきましたから」。そう話すのは、明治時代に岡山県初の寿司屋を創業した『吾妻寿司』の3代目・難波正治さん。

千日前で営んできた本店の場所が『岡山芸術創造劇場』の建設地の一部となって付近に移転した現在も、千日前地区の再開発組合理事長を務めています。

難波さんが生まれたのは1945(昭和20)年。この年、6月の岡山大空襲で岡山市中心街は焼け野原となり、岡山城や千日前に5館あった映画館も軒並み焼失しました。

▲新鶴見橋側から見た、1971(昭和46)年の風景。手前に、『岡山後楽園』のそばにオープンしたばかりの『岡山県立博物館』。その向こうに、1966(昭和41)年に再建された「烏城」こと『岡山城』天守閣が佇む(画像提供/岡山県立記録資料館)

実は岡山市の映画館は、戦後間もない昭和20年代前半に建てられたものが特に多く、映画の存在がいかに人々の心の支えになっていたかがわかります。千日前の映画館は焼失してから5カ月後には早くも復活。

毎日のように映画を観て育った難波さんにとって、幼少期の千日前は絵看板とネオンで彩られた賑やかな映画館街でした。

「この街のいい時も悪い時も見てきました。人通りが多くて活気にあふれていた街でしたが、昭和40年代に入ると急激に訪れる人が減りましたね。その大きなきっかけとなったのが、1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックなんです」。

「オリンピックの放送を機にテレビが一般家庭に一気に普及し、映画を観に来る人が減ったのです。千日前の映画館が次々と閉館して寂しかったね」。

▲千日前を彩った映画館の看板。現在は『木下サーカス』の事務所に大切に保存されている

それでも経営スタイルを工夫し、上映館を併設するなどして、千日前の映画館は昭和40~50年代には7館まで増えました。

ちなみに1963(昭和38)年、千日前の映画館『岡山松竹』(旧『帝国館』)の新装オープン時には、3階の映画館の下(1~2階)に誕生した、岡山市初の本格的スーパーマーケット『銀ビル』に客が詰め掛けました。

そして、昭和50~60年代の千日前では3軒の映画館が閉館。世の中が車社会になるにつれ、郊外に増えていったスーパーマーケットや大型店のあおりも受けて、商店街の専門小売店は入れ替わりが激しくなり、減少していきました。

▲岡山と公演先を行き来する、営業担当の木下嘉子副社長。甥であり、以前は空中ブランコの飛び手として活躍していた木下英樹取締役は、千日前の事務所を拠点にスタッフを支える

千日前を拠点にする『木下サーカス』の木下嘉子副社長 (昭和18年生まれ)も、祖父(『木下サーカス』初代社長・木下唯助氏)が営んでいた千日前の映画館が毎日の遊び場でした。

「祖父は空襲で焼失した映画館を、バラックでしたがいち早く復活させました。私が子どものころは、どの映画館も連日行列ができて超満員。テレビが普及した昭和40年代からお客様が減っていきましたが、新作映画の封切日は人が多かったですよ」。

映画館の復活には、テントを建てる技術に長けたサーカスのスタッフが大活躍。焼け野原に残っていた丸太や板、釘などを拾い集めて、短期間で建設したそうです。

▲「今、整理している『木下サーカス』の歴史資料を展示できたら」と取締役。『木下サーカス』社屋は以前、『岡山芸術創造劇場』の建設地にあった。「私が調教していたアシカのプールもありましたよ」と副社長。現在、社屋は隣の旧中国銀行の建物に移転している

「当時は二番館(全国一斉封切りから少し遅れて上映する館)が多いなか、千日前には封切館ばかりが集まっていました。これは全国的にみてもすごいこと。新作フィルムは他の興行会社と取り合いになるので交渉力と調整力が必要で、しばらく映画館の支配人をしていた父(2代目社長・木下光三氏)は人とのつながりをすごく大切にしていましたね」。

木下光三氏の「千日前で、新しいもの、面白いものを見てもらいたい。たくさんの人に楽しんでもらいたい」という気持ちが伝わってきます。

▲『木下サーカス』 (木下興行)が営んでいた映画館のひとつ『大映文化劇場』。大映映画封切館となった1958(昭和33)年の撮影。ニュースや記録映画などを上映する「ニュース文化劇場」としてスタートし、戦後は一時、芝居小屋だったことも(画像提供/岡山県立記録資料館)

「毎月23日は『日限地蔵の縁日』。昔は千日前から大雲寺の日限地蔵までお参りする約100mの通りにガス灯がともり、露店がずらりと並んでいたんです。この日は特に、朝から晩まですれ違う人と肩が触れ合うぐらい賑わっていましたね。やはり、その人出も昭和40年代から減りましたけど、千日前は信仰心とともに楽しい思い出が育まれる場所でもあったんです」。

約400年前、大雲寺が現在地に移転した時に地中から掘り起こされた地蔵が祀られ、日数を区切って願い事をすれば叶えられると広く知られていたため、参拝者が県内外から訪れました。なかでも1960年代(昭和30年代半ばから数年間)の縁日は、植木や衣料、お菓子などを売る約300店が並んでいたそうです。

映画、サーカス、スーパーマーケット、縁日…。

形は違っても、千日前は常に、新しいもの、人々を楽しませるものを提供しようとしてきた街でした。この街にできる岡山芸術創造劇場も、その歴史を受け継いでいくことになるのでしょう。

では、昭和40年代以降の千日前以外の表町商店街の人通りはどうだったのでしょうか。前出の難波さんはこう回想します。

「人通りは千日前は減少したけど、『天満屋』がある下之町周辺は、昭和40年代に入ってもあまり変わらなかったね」。

それは、『天満屋』があらゆるものをそろえる百貨店であり、地域貢献のために文化&芸術の発信も続けてきたことが大きいといえるでしょう。

では次回のvol.8では、『天満屋』をメインに表町商店街の歴史をみていきましょう。どうぞ、お楽しみに!

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