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岡山芸術創造劇場 ハレノワ ~カウントダウン♪ 千日前から

深~い!新劇場「岡山芸術創造劇場」と千日前の誕生物語VOL.6

変わる 街をウォッチング。岡山芸術創造劇場~カウントダウン♪ 千日前から

  • 情報掲載日:2021.12.08
  • ※最新の情報とは異なる場合があります。ご了承ください。

昭和の幕開け~活気に満ちた千日前周辺の商店街。映画館と百貨店には舞台があった!

老朽化した『岡山市民会館』と『岡山市民文化ホール』を統合し、2023(令和5)年9月1日に表町商店街千日前にグランドオープンする『岡山芸術創造劇場』。

2021(令和3)年8月、その愛称は『ハレノワ』に決定されました。

この『ハレノワ』の建設には、表町をはじめとする旧城下町に「かつての賑わいを取り戻したい!」という願いも込められています。

そして、建設真っ最中の現場には地下2階、地上6階建ての鉄筋の骨組みが姿を現すようになりました。

さて、今回は昭和の前半、昭和30年代までの千日前界隈のお話です。

江戸時代に侍屋敷が並んでいた「天瀬可真町」が「千日前」と称されるようになったのは昭和初期から。なんでも、大阪の繁華街の名にあやかって呼ばれるようになったとか。

この頃の表町商店街は、まさに全盛期と言える時代。なかでも、最南端にある千日前地区は映画館が集中する一大娯楽街でした。

▲1953(昭和28)年の賑わう千日前商店街。入口は映画街らしく、「今週の映画」を知らせる手書きの絵看板が彩る(画像提供/岡山県立記録資料館)

当時の一番の娯楽は、映画を見に行くこと。

芝居小屋の見せ物として始まった映画の上映は、明治から昭和初期までは「活動写真」(無声映画)の時代。

映画館のスクリーンの前には舞台があり、その傍らで映像に合わせて活動弁士が軽妙に語り、舞台下のオーケストラボックスで楽団が演奏していました。

当時は「弁士の上手下手で映画の魅力が決まる」とまで言われ、目前で演じられるワクワク感があったのです。映画館の舞台では、歌謡ショーや芝居などの実演もあったとか。

1932(昭和7)年頃からは音声付き、いわゆる「トーキー映画」も上映され、ますます映画人気が過熱していきます。

「昭和30年代は、千日前のわずか約200mの長さの商店街に、飲食店を中心に約100店舗が連なり、毎日がにぎやかでお祭りみたいでした」。

「特に新作映画の封切日は、すごい人出でしたね。千日前から北隣の紙屋町を過ぎて、さらにその北の栄町まで長い行列が続いていたんですから」。

そう昔を懐かしむのは、千日前で生まれ育った1945(昭和20)年生まれの難波正治さん。約110年前に県下初の寿司屋を創業した『吾妻寿司』の3代目です。

▲大阪の修業先からのれん分けした『吾妻寿司』。現在は千日前に店はなく、天満屋本店の地下にある「てんちか晴れの国キッチン」と岡山駅前にある。「開業当初は大阪名物『箱寿司』や『岡山ばらずし』、巻きずしなどお土産寿司が中心。戦後から店で食べる握り寿司が中心になっていきました」と難波さん

先代である正治さんの父親が、1941(昭和16)年に岡山市街の西川筋界隈から少し東側になる千日前へと店舗を移転させました。

今は千日前地区の再開発組合理事長を務める難波さんは、地元商店街の変遷を幼少期からずっと目の当たりにしてきました。

「子どもの頃は毎日のように千日前の映画館に通っていました。小学校高学年の頃に上映された『鞍馬天狗』が大好きで、友達とよく主人公の神出鬼没の剣士のマネをして遊んだもんです(笑)」。

「12歳の頃は特撮映画に登場する怪獣・ゴジラが巷でブームになったんですよ。絵看板は手描きで、絵師がその場で下描きもしないで描くさまを見物するのも面白かったですね」。

▲「てんちか晴れの国キッチン」内の天満屋本店『吾妻寿司』にて。テイクアウトでは、伝統の味「岡山ばらずし」などの好きな小箱を組み合わせることができる(2つで1200円)

ちなみに、『吾妻寿司』が開業した1912(明治45)年は、ちょうど岡山市中心街に路面電車が開通し、千日前の映画館第一号の『帝国館』(のちの松竹)が誕生した年。

その後、千日前の映画館は、1919(大正8)年に『金馬館』(のちの『岡山日活』)、1926(大正15)年に『若玉館』(のちの『テアトル岡山』)が誕生しました。

さらに1937(昭和12)年に『ニュース文化劇場』(のちの『大映文化劇場』)、1950(昭和25)年に『白鳥座』が続々オープン。岡山市内の他のエリアの映画館は、ほとんどが昭和の初期から20年代に誕生したものだったようです。

表町商店街のなかでもひときわ人を呼び寄せていた存在が、千日前の映画館街と下之町の百貨店『天満屋』でした。

創業190年以上になる『天満屋』は江戸時代に、西大寺村(現在の岡山市東区西大寺)で小間物を扱う店として出発。3代目・伊原木藻平氏が1912(大正元) 年、表町商店街中之町に呉服店を出店。

その13年後の1925(大正14)年に、同商店街の現在地・下之町に百貨店をオープンさせたのです。

▲1936(昭和11)年に新しい天満屋本館が落成した時の記念絵葉書。「西日本随一」の規模の、地上6階、地下1階建てで、エレベーターや空調も完備。あらゆるものが揃うモダンな百貨店に、おしゃれをして出かけるのが大きな楽しみに(画像提供/岡山県立記録資料館)

ところが、1945(昭和20)年6月の岡山大空襲で岡山市街が焼け野原になり、天満屋も映画館も消失。戦後の復興は闇市から始まり、市内全域に露店などが並びました。

『天満屋』は敗戦直後に復旧工事に着手し、早くもその年の10月に店舗の一部で営業を再開。

さらに、1949(昭和24)年、全国初の店舗接続型バスステーションを設置。バスの路線の起点を一か所に集めることで、県内の各方面から表町への集客力を一気に高めたのです。

また1953(昭和28)年、「地域社会のためになるものを」と、遊園地のあった6階屋上に、百貨店では日本一の規模の文化ホール『葦川会館』を建設。

約800席を備え、最新型照明設備と優れた音響設備を誇る「舞台芸術の殿堂」として、さまざまな劇団による演劇が頻繁に上演されていたとか。

▲ボンネットバスもまだ活躍していた、1960(昭和35)年の天満屋のバスステーション。その後方にある映画館のビルには、『岡山地下セントラル劇場』と『岡山東宝』の看板が掲げられている(画像提供/岡山県立記録資料館)

▲天満屋の『葦川会館』文化ホール。広々としたステージで、1~2階には約800人まで着席できた1958(昭和33)年、農業関連の実績発表大会開催時の写真)。現在、『葦川会館』はホールではなく、イベント会場となっている(画像提供/岡山県立記録資料館)

1957(昭和32)年には表町全体のアーケードが完成し、悪天候でも安心して買い物が愉しめる街になりました。

「表町に出てきたら、千日前で映画を見て、周辺で食事をしたり、商店街の専門店や天満屋でショッピングをしたり‥。これらをセットで楽しむのが庶民の定番だったようです」。

では、昭和40年代の表町商店街はどうだったのでしょう。

「昭和40年代になると、商店街は訪れる人が急激に減少しました。それはもう、悲惨でしたね。その大きなきっかけとなったのが、1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックなんです」。

にわかに、話をする難波さんの表情は険しくなりました。いったい、どういうことなんでしょうか。

その答はまた次回(vol.7)に…!

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