城下町として発展した表町商店街。ここから始まる千日前の歴史…。~戦国時代から江戸時代へ~
2023年に『岡山芸術創造劇場』が誕生する表町商店街・千日前は、もともとエンターテインメントが育まれる土壌にあった! Vol.2からは、歴史を振り返って岡山市中心街のルーツをみていきましょう。
表町商店街は千日前を南端、『岡山シンフォニーホール』のある「上之町」を北端として南北一直線の約1㎞、それに交差する東西約0.4㎞を合わせた約1.4㎞の商店街のことです。この一帯の起源は、なんと400年以上前の室町時代末期、戦国時代にまでさかのぼることができます。
のちに岡山城下町となるエリアには、もともと3つの丘(石山、岡山、天神山)がありました。そのひとつ石山 (岡山市丸の内)は、室町時代末期、小領主・金光宗高が本拠地としていて、周辺はまだ農家がポツポツと点在する程度でした。
岡山市内には、石山、岡山、天神山など、地名の由来を記した碑があちこちに。詳細は、後半の『歩いて回ろう!おかやま 城内エリアの歴史遺産』(NPO法人あしたり岡山)にて
16世紀後半、備前・美作地域に地盤を築いていた宇喜多直家が金光氏を謀殺、石山城を大改修して本拠地を当地へ移したという説があります。このとき、備前国で最も栄えていた福岡市(瀬戸内市福岡)から、商人を呼び寄せました。そのエリアは、表町商店街の上之町・中之町・下之町あたり。当時は「福岡町」と呼ばれたようです。また、西大寺、郡(こおり どちらも現岡山市)からも商人や職人を呼び、今の西大寺町や紙屋町などの町づくりにもつながりました。
その後、直家は病没。幼くして跡を継いだ秀家は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の支援を受けて成長し、やがて備前国・美作国・備中国東部を領土とする大大名に。また、それにふさわしい城と城下町を造ることになります。石山の東にある丘「岡山」に本丸を築き、城は「岡山城」、城下町も「岡山」と呼ばれるようになります。
千日前の周辺は、1593年(文禄2年)、天瀬(現在の千日前)に武家屋敷を建設すること、西大寺町などに商売人の新町をつくること、のちに京橋と呼ばれる橋を旭川にかけることを宇喜多家が指示したことから発展していきます。
その橋の東側から西へ西国街道(山陽道)が引き込まれ、西大寺町から北へ伸びて福岡町へ。このルートが栄えて表町商店街の始まりとなりました。
城下町の整備は進んでいたのですが、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで、宇喜多氏は徳川家康の東軍に惨敗。小早川秀秋に城を明け渡します。が、小早川秀秋はわずか2年で急死。1603年(慶長8年)、徳川家康の孫にあたる池田忠継が岡山城を引き継ぎ、町はその後も発展していくのでした。
さて、岡山藩主の池田家といえば、その大名調度品の多くを収蔵する、『林原美術館』です。歴史を研究されている谷一尚館長に、岡山の城下町について、思うところを伺ってみました。
「旧岡山城下町エリアは、音楽ホールや美術館、博物館など文化施設が集中する、とても文化的なエリアです。ここまでの充実ぶりは、地方都市では岡山だけといっていいでしょう」
「鎌倉時代の国宝絵巻『一遍上人聖絵 福岡の市』を見ると、備前福岡が中世の大都市で、岡山には何もなかったことがわかります。「岡山」という地名は、宇喜多秀家になって初めて使われだしました。秀家が大阪城をモデルにして岡山城を造り始めた頃に、石山の東の丘を「岡山」と呼ぶようになったようです」
「そして、江戸時代、岡山藩主・池田綱政の時には岡山後楽園もでき、町は整備され栄えました。当時、岡山城には36もの櫓があったのです。しかし、現存するのはたった2つで、岡山城本丸跡の月見櫓と、旧内山下小学校の西丸西手櫓のみです」
「明治時代、『古いものはダメ』という価値観から、34もの櫓を壊してしまったことは、非常に残念です。文化とは、意識しなければ無くなったり壊れたりするものなのです。岡山に暮らす私たちは、これからもっと文化施設を活用して、文化芸術を大切にするべきです。それがよい街をつくることにつながるのですから」。
後世に引き継いでいきたい、岡山の文化芸術。 Vol.3では、その源となる、江戸時代の岡山の城下町で人々が楽しんでいたこと、エンターテインメントの原点について一緒に探ってみましょう。
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