あたりまえにある身近なあんなものやこんなものに、実はこんな歴史や理由があるのです…。
そんな身近にある何? なぜ?を調べます。
知っているようで知らない旧閑谷学校
世界最古の庶民のための公立学校である『旧閑谷学校』。最初に日本遺産に認定された場所、また紅葉のスポットとして知られています。しかし、そもそもなぜそこに閑谷学校を? そんな疑問から、成り立ちや見どころなどを掘り起こして紹介します。
閑谷学校ができた理由
なぜこの地に閑谷学校を?
岡山藩主・池田光政が家臣・津田永忠に命じて造らせた閑谷学校。現存する庶民のための公立学校としては世界最古といわれています。創建された江戸時代前期の寛文10年(1670年)は、武士のための学校はあれど、庶民のための学校はまだ珍しい時代。なぜ岡山藩の中心地から遠い、備前の地に造ったのか。それは池田光政が歩んだ人生と大きな関わりがあります。祖父、父、そして本人も、姫路藩の藩主を経験。姫路藩主ののちに鳥取藩主、その後に岡山藩主になった光政は、祖父、父の墓所を姫路藩に近い場所に造るためにこの地を訪れたといいます。静かな環境で学問の場にふさわしいことで、この場所に学校を造ることになりました。
なぜ庶民のための学校を造ったのか。
もともと岡山藩では庶民が行ける手習所が藩内に123カ所あり、庶民への教育の重要性を認識していた藩でした。「国づくりは人づくりから」という理念のもと、「質の高い教育を、武士・庶民に関わらず与えたい」という考えが光政にはあったようです。そこで、「地域のリーダー」となりうる人材を育てる場に、と閑谷学校が造られました。
といっても、閑谷学校は住居地から遠いため多くの学生が学房に入る必要がありましたが、学房に入るためには一日5合もの米を納めることが必要。それなりに裕福でないと通えなかったようです。地主や名主、寺の跡取り、医者などの子息といった、将来「地域のリーダー」を託される子どもたちが学んでいました。岡山藩全域からはもちろん、ほかの藩からも学生を迎え入れていました。共同生活をしながらお互い助け合い、学んでいたんですね。
この学校で特徴的なのが、周辺にあった学校田。学校が管理する田もあったようで、そこで収穫した米を収入源にして自立採算性が取れるよう工夫されていたというから、経営的にも考えられていた学校なんですね。
ここで学んでいたもの。
学校で学んでいたのは、当時主流だった儒教の教え。四書五経(昔、歴史の授業で習いましたね…)を教材に、四書は講堂で、五経は隣にある習芸斎で学んでいました。講堂内では筆記をすることができなかったそう。廊下や広い校庭は、休憩時間に四書五経から学んだことを頭の中で反すうしたり、教えについて思案する場所だったようです。「子どもたちはそんなことを考えながらこの景色を見ていたのかな…」と想像すると、さらに感慨深い見学になりそうですね。
地域のことを考え、人格を育て、人を思いやる心を育て、徳を磨き続けることなど、人間社会の中で生きていくための学びの場となっていた閑谷学校。今でも、岡山市や瀬戸内市、備前市など備前エリアの生徒たちがその教えを論語学習や宿泊学習などで学ぶ機会があるようで、今でも地域の子どもたちの教育に影響をもたらしています。
ふらっと見に行っただけじゃ分からない! 旧閑谷学校の見どころ。
300年以上前の建築、土木に隠されている考えられた仕組み。
備前焼で造られている屋根瓦も、講堂の建物も、周囲の石塀も、約300年前に建てられた当時のまま。ただ見学しただけでは「ふ~ん」としか思わないかもしれませんが、実は長く保存できるような工夫が随所にちりばめられています。その一例が、周囲にある石塀。大阪から呼び寄せられた技術の高い石工によるもので、かまぼこ型の石塀は組んだ石をきれいな曲線になるよう削っていて、その技術の高さがうかがえます。そのほかにも角に丸みを付け、地震が起きた時に1カ所に負荷がかからないようにしていたり、内側には水洗いしてきれいにした割栗石が詰められたりしていて、そのおかげで中に土や植物が入る隙を与えず、今でも中から草が生えることがないのです。確かに、中に土が詰められた塀に草が生えている風景をよく観ますもんね。そう考えると300年生えてないのはすごいです!
また、校門である「鶴鳴門」の軒下をよく観てみると、瓦の下に筒が見えます。これは備前焼でできた管で、雨が降った時には瓦のすきまを通った水が下に溜まることなく外に放水され、天気のよい日は乾燥した空気を内側へ運び内側を乾かしてくれる仕組みなんです。木造の建物は水分が大敵。建物を長持ちさせるための工夫がこんなところに施してあるんですね。
また、学びの場と宿舎の間にあるこんもりとした人工の山・火除山にも重要な役割が。生活の場で火も使う宿舎である学房と、学校の間を小高い山で区切ることで、もし学房で火事があっても火除山の東にある講堂や習芸斎などにまで延焼しないための工夫でした。実際、江戸時代に学房で火事があったそうで、それも火除山があったため講堂や習芸斎などにまで火がおよばず、そのため国宝である講堂を含め旧閑谷学校の建物が今でも残っているのです。改めて先人の知恵のすごさを感じます。
隠れた見どころあれこれ。
また、隠れた見どころも教えていただきましたよ。ひとつは、ヤブツバキの林の奥にある、閑谷学校の創始者である池田光政の髪、爪、歯を収めた供養塚。背面の石塀も見事な場所ですが、ここの角で柏手を打つと音が「ビョンッ」といった感じでよく響き、ウグイスの鳴き声のように聞こえることから「鶯谷」とも呼ばれるとか。また、校庭の東側の山の斜面を上がる石塀は龍に見えるパワースポットともいわれています。また、建物のあちこちにハートが。そのハートは「猪目」というもので、閑谷学校でよく使われている六葉紋の丸瓦や釘隠しなどの中に隠されています。縁起のよい場所と注目されているので、探してみてくださいね。
春はウメ、ツバキ、サクラと花の季節なので訪れ時です!
秋の紅葉の時期ににぎわう旧閑谷学校ですが、季節の花が楽しめる春も訪れるのによいシーズンです。2月下旬から4月上旬にかけて、ウメやツバキ、サクラが次々に咲き、華やぐ季節です。まず2月下旬から3月中旬まで、校門前の梅林にウメが咲き、春の訪れを告げてくれます。また旧閑谷学校にある約400本ものヤブツバキが植えられている椿山も見逃せません。3月中旬から4月上旬に咲くツバキの林は見事。椿山の存在をあまり知られていないのでぜひ見てほしいです。資料館の階段付近に咲くピンク色のかわいい乙女椿もチェックですよ。3月下旬にはサクラが、元『私立中学閑谷黌』の本館として建てられた現在の資料館の辺りと泮池南側の桜山に咲き誇ります。
もうすぐ旧閑谷学校に花の咲くシーズンです。せっかくなら春に改めて旧閑谷学校へ訪れてみてはいかがでしょうか。
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