岡山市出身で、パリを拠点に活躍されていた洋画家・赤木曠児郎先生。
エッセイ「Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出」を『オセラ』にご寄稿いただいておりましたが、去る2021年2月15日に、ご逝去なさいました。
このコーナーでは、赤木先生を偲び、本誌で掲載されたエッセイを1編ずつ紹介していきます。ご功績を振り返り、在りし日のお姿に思いをはせてみませんか。
※掲載文章は連載当時のものです
《第6回》パリに入った頃
わたくしたちがパリに到着したのは1963年の4月で、日本は新幹線もまだ走っていなかったし、前の東京オリンピックが開かれる前年、半世紀以上も昔のことになる。
知人のつてでパリ在住の長い増田誠夫妻に紹介され、頼ってお世話になった。
当時増田さんはあるパリの画商と作家契約されていて、そんな日本人画家は珍しい存在だったから、みなの羨望の的のご夫妻なのだった。
そのご夫妻の仲人役をされたのが平賀亀祐先生で、現在はもう覚えている人も少ないかもしれないが、1889年生まれ、移民として16歳の時に米国に渡らされ、絵画の勉強をして1925年フランスに移り、1971年に亡くなられるまで46年間パリで活躍された先生だった。
350年の伝統を持つフランスの官展「ル・サロン(フランス芸術家協会展)」、日本なら「日展」にあたる世界の展覧会の元祖で、1954年に日本人第一号の金賞を得られた先生で、当時芸術の世界で水泳の橋爪四郎選手にも匹敵する大きな話題だった。
凱旋記念展が日本で翌年開かれ、1961年には勲三等瑞宝章の勲章が与えられている。
増田さんを通じて平賀先生をパリで初めて知ったのだが、もう先生の周りにはたくさんの頼ってくる画家がいて、アカデミックな具象作家の一群ができていた。
先生がお住まいの近くに『リベリアホテル』という名前のホテルを見つけられた。
有名な『グランドショウミエール絵画研究所』の向かい側で便利がよく、部屋には洗面台だけ、風呂場は近所の市営銭湯、便所は階の共用という宿屋だが、部屋で自炊が許され、絵を描くのもかまわないというのが何よりだった。
60室のほぼ全室が日本人画家で埋まり、老齢年金で暮らすフランス人が少しだけ住む流れ星ホテルで、週に1回女中がシーツの交換に来てくれた。
夜になるとワインの瓶を持って誰となく集まり宴会が始まるし、買い物も近くのできたばかりのスーパーにみなで行き、展覧会の出品時期には合評会、平賀先生を囲んで議論という具合で、フランス語の必要もない日々。
日本国自体が復興途上国で外貨は不足、いくら大金持ちでも自由になる外貨に困っていた時代だった。
安いのが何よりのこのホテルに増田さんが部屋を取ってくださっていて本当に助かった。東京の間借り暮らしに比べれば極楽のようなもので、これで勉強が続けられると感謝した。
結局二カ月いて引っ越すことになったが、たくさんの日本人画家がお世話になり、後にみなの推薦で管理人のおばあさんに、日本の勲章が出されたほどである。
今行って見るとオーナーも代わり、星の付いたホテルになり、名前も『ホテルデボザール(美術家旅館)』に変わっていたが、日本がリッチになり、バブルで沸き返る以前の30年間くらいは、歴代日本美術家が泊まっており、武勇伝であふれている。
トタン屋根の上で魚の干物までできていたのである。
『グランドショウミエール通り』
(素描原画/47x36cm)2005年
小さい通りだが1920年代、エコール・ド・パリ、当時の美術家の中心地にある通りで、画材屋が軒を連ねていた。アカデミーと看板の上がっているのが有名な絵画研究所で、世界中から画学生が集まってきていたのだった。昨年、建物を取り壊しビルを建てるとかで研究所も閉鎖になりかけたが、美術家が集まって歴史建造物への認定を願い、保存されることとなった。ホテルと看板の出ているのが、その昔の『リベリアホテル』。奥の側端の4階の窓が、パリ暮らしの第一歩を始めた部屋で懐かしい。窓の向かい側の建物の入り口には、ゴーギャンとモディリアニの住んでいたアトリエ記念との碑が、今でもかかっている。感激してしまうよね。
赤木 曠児郎(あかぎこうじろう)
洋画家。1934年、岡山市下田町(現・岡山市北区田町)生まれ。
第2次大戦後、岡山市東区西大寺で暮らす。岡山大学理学部物理学科を卒業して東京へ。
その後フランスに渡り、現在はパリ在住。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。輪郭線を朱色で彩った独特の画法が特徴で、「アカギの赤い絵」として名高い。
40年以上描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても評価されている。
ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。そのほか、フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞なども受賞。
またファッション記者としても活躍し、プレタポルテを日本に初めて紹介。ジバンシイやバレンシャガなどの多数のブランドが初めて日本の百貨店に出店する際にも橋渡し役として活躍したことでも知られる。
2021年2月永眠。
オセラNo.101(2019年8月25日発売)掲載より
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