岡山市出身で、パリを拠点に活躍されていた洋画家・赤木曠児郎先生。
エッセイ「Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出」を『オセラ』にご寄稿いただいておりましたが、去る2021年2月15日に、ご逝去なさいました。
このコーナーでは、赤木先生を偲び、本誌で掲載されたエッセイを1編ずつ紹介していきます。ご功績を振り返り、在りし日のお姿に思いをはせてみませんか。
※掲載文章は連載当時のものです
《第1回》妻とのこと。
2018年3月、家内がパリの自宅で永眠した。前日まで一人で動き、電話にも出て応対していたし、夕食のテーブルにも座った。痩せて大変弱ってはきていたが、翌日お医者さんに、検査結果を持って診断に行く約束で、準備もしていたのだった。
1925年生まれで92歳だったから、これからもっと長く生きても人様に迷惑をかけるだけだし、年に不満はなかったと思う。今ではそう珍しいことでもないが、60年前にわたくしより10近く年上で結婚、周りに反対され苦労も多かった。
極力妻は自分のことは抑えて、表に出ないことを願っていた。末年とはいえ大正生まれで出しゃばらず、わがままなわたくしには、その頃の日本女性の美徳を充分に備えていた人だった。
西洋ではシャネルが登場し活躍、ギャルソンヌ、モボ、モガなんて言葉がファッションに現れ、それから日本では軍国主義、太平洋戦争へと突入していった時代である。
パリに来て永く住み着くことになり、古いことは記憶もあいまいになるから書き留めておいたのが『私のファッション屋時代』という本だった。
最初菊版で出し、好評だったので写真も加え新書版で作り直し、フランス語版もできた。
マダムのことが少ないとの声も多かったのだが、これは「私のことは書かないで」という家内の願いで、最小に抑えたので最初からわかっていたことだった。
昔の日本女性の「たしなみ」というものだったと、今では懐かしく思う。忘却の中に消えてしまうのはいかがなものか、残念な気もするので、この機会に少しずつ書き留めておこうと始めている。
わたくしたちの出会ったのは、1956年の東京である。まだ日劇の前にお濠や数寄屋橋があった。
わたくしは岡山の大学を卒業させてもらって、就職もしないで東京に出た。今で言えばフリーターとなるが、絵も描きたかったし、母が岡山の西大寺で洋裁学校というより塾のようなものを開いて、賑わっていたから、洋服作りにも興味があった。
敗戦復興期の日本、商店街には布地屋さんが沢山あり、洋服仕立て店が並んで賑わっていた頃である。
東京が何ごとも日本の中心で、岡山は東京から流れてくる波の受信器みたいなものだから、伝手を頼って東京に出て、四畳半一間の部屋を借りて、自炊しながら絵を描いた。
お茶の水の文化学園の服飾デザイン科にも在籍した。
洋服は大きくて、自分一人の力では仕立てられないが、婦人帽子なら小さな彫刻のようなもので自分でも作れるかと思えたので、東京の麹町に店を構えていた、皇室御用達の婦人帽子店『ベル・モード』の筒井光康、君子先生を訪ね、弟子入りを認められた。大勢の小僧さんや、職人さん、縫製係の女性職人さんが働いていたが、その中に家内も居たのであった。
わたくしは弟子という名目で、かなりわがまま勝手なことを許されて、ウインドウの装飾を引き受けたり、地方に向け帽子研究会用のテキストを作成したり、店のファッションショーの手伝いをしたり。
当時普通だった中学を出て集団上京、丁稚小僧で就職して働いている人から見たら申し訳ないが、大学出ということで特別扱いの贅沢をさせていただいていたと感謝する。
家内の仕事は、その店で帽子を縫い合わせたり、飾りリボンを飾ったりという仕事だった。
『ランラーグ通りのお屋敷』
(素描原画/47×39cm) 2018年
ひと言でパリと言っても、いろいろな地区があり、当然差別もある。16区のお屋敷街、住んでいる通りの名前を聞いただけで、豊かな人たちだろうと判断される。逆に住んではいけない名前の通りや、地区も当然ある。この通りの建物のデッサンを始めた日、家内は見送ってくれた。描き終わった日、もうこの世の人ではなかった。少しつらい作品である。
赤木 曠児郎(あかぎこうじろう)
洋画家。1934年、岡山市下田町(現・岡山市北区田町)生まれ。
第2次大戦後、岡山市東区西大寺で暮らす。岡山大学理学部物理学科を卒業して東京へ。
その後フランスに渡り、現在はパリ在住。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。輪郭線を朱色で彩った独特の画法が特徴で、「アカギの赤い絵」として名高い。
40年以上描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても評価されている。
ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。そのほか、フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞なども受賞。
またファッション記者としても活躍し、プレタポルテを日本に初めて紹介。ジバンシイやバレンシャガなどの多数のブランドが初めて日本の百貨店に出店する際にも橋渡し役として活躍したことでも知られる。
2021年2月永眠。
オセラNo.96(2018年10月25日発売)掲載より
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