《長迫吉拓×BMXレース》東京五輪を競技人生の集大成に。次世代へとつなぐレースを誓う。
2016年リオオリンピックで日本代表として選出され、今年2月に行われたBMXワールドカップにおいて選考基準を満たし、東京オリンピック代表を確実なものにした長迫吉拓にインタビュー。
BMX競技人生の集大成として、可能性を感じさせるレースにする。
2016年リオデジャネイロオリンピックに日本代表として出場した長迫吉拓選手。今年2月に行われたワールドカップで、東京オリンピック代表の選考基準を日本勢で唯一クリアし、2大会連続のオリンピック出場を確実にした。全日本選手権では、2011年から前人未到の5連覇を果たし、まさにBMXレース界のパイオニアである彼だが、現在に至るまでは、決して順調な競技人生ではなかった。そんな彼の競技の歩みをふり返ってみたい。
BMXと出合ったのは、4歳のとき。父親が自営業としてバラ農園を始めた場所の目の前に、笠岡湾干拓地のBMXのレース場があったことがきっかけだった。補助輪が外れて間もなかった頃だったが、近所の同年代の子もレース場に集まっていたことから、夢中になってレース場を自転車で走っていた。「スピード感とか、どきどきする感じが好きでしたね」と、幼き頃から気づけば毎日のようにレース場に通っていたという。
その後、わずか5歳で地元のレースに初出場し、9歳で世界選手権日本代表にも選出。着実に成長を遂げていくその姿は、一見すると早熟のスターのように見える。だが、長迫選手いわく、その頃の自分は勝てる選手では全然なかったという。小・中学生の時代も競技には本気で取り組んでいたが、当時は体が小さく、表彰台に上がることもできなかったそう。「世界大会に出られたのも、ただたくさんの大会に出てポイントを稼いでいただけ」と、当時をふり返る。そんな風向きが変わったのは、16歳くらいの頃からだという。この頃になると、少しずつ体も大きくなってきて、徐々に走りに手応えを感じられるようになる。そこで迎えたオーストラリアでの世界選手権。この大会の準決勝のレースを、「今もあの感覚が忘れられない」とふり返る。「まるで照明が落ちたような感覚で、走るべき道が青白く光って見えた」と、いわゆるゾーンに入った体験を教えてくれた。この大会で確実な手応えを得た彼は、迎えた2011年の全日本BMX選手権大会で初優勝に輝き、そこから前人未到の5連覇を果たすのだ。
脚力、スピード感も問われるBMXレースにおいて、世界のトップレベルの選手にも負けない地力を持つ長迫選手。3年前には、自転車のトラック種目でも世界選手権に出場し、まさに二刀流の活躍を見せる。そうした環境下でダッシュ力にも磨きをかけ、海外大会への出場を重ね、世界のトップレベルの選手と戦えるだけのさらなる下地を作ってきた。
だが、そうした世界の中で戦えるほどの実力があっても、競技に集中することが難しい時期もあった。決してメジャースポーツとは言えないBMXは、より環境が整っている海外へ渡航して練習しようにも、サポート体制が整っておらず、スポンサー集めも自身でしなければならなかったのだ。ときには400社以上に対して電話をかけたり、自作の企画書を送って積極的に自身を売りこんだりと、資金援助を募る活動に時間がとられる日々も多かった。こういった自身の苦難もあり、「若い選手たちが競技に打ちこむことができる環境作りを整えたい」という思いが強くなったのだそう。より結果にこだわって、あえてビッグマウスな発言をして、自身を追いこんできたのも、そんな思いがあったからなのだ。
今現在、自身と世界のトップレベルとの差について聞いたところ、「テクニックでは上にいる方だし、パワー面でもそこまで劣っていないと感じられるレベルになりました」と話す。あとは、そのときのフィジカルにメンタルを一致させることが目下の課題だという。それを実現できれば、表彰台もぐっと近づいてくる。今回の東京オリンピックについて、「自身のピークを、自国開催のときに迎えられるのは、本当に幸せなことだと感じています。今回のオリンピックを競技人生の集大成としてとらえているので、気持ちが行き過ぎてもいけませんが、行くところと行かないところをしっかりと見極めて、次の世代にも可能性を感じさせられるようなレースをしたい」と語ってくれた。準々決勝で涙をのんだ前回のリオオリンピック。26歳となり、より一層たくましさを増し、「最後のオリンピック」に強い使命感を持って挑む、彼の活躍に期待したい。
(タウン情報おかやま2020年4月号掲載より)