《森田一成×野球》再び歩み始めた野球の道。指導者として次なる夢へ。
プロ野球で、代打でプロ初打席初本塁打という史上13人目の記録を達成。プロ野球ファンにとって、今なお記憶に強く刻まれている森田一成さん。2017年より指導者として、選手の育成に励む彼にインタビュー。
「自身の野球教室からプロ選手が誕生してほしい」。次なる夢に向かって。
プロ選手にとって、アスリートとして現役でいられる期間は短い。プロ野球選手の平均在籍期間は9年といわれており、多くの選手が20代にして現役生活から退き、その後はセカンドキャリアを迎えることとなる。高校時代、関西高校で持ち前の打撃力を生かしてプロ入りした森田一成さんもそのひとり。彼は今、指導者として新たな夢を追いかけている。
森田さんが野球を始めたのは、小学1年生のとき。小学生の頃から体が大きく、6年生ではエースで4番という中心選手だった。中学生では、硬式のクラブチームに所属し、そして強豪・関西高校へと入学。1年の秋からベンチ入りし、2年春夏、3年春と甲子園に出場。3年夏こそ甲子園に届かなかったものの、岡山大会で3本塁打を放ち活躍。ケガの影響もあり、監督からは「プロは厳しいんじゃないか」と言われたそうだが、見事、最後の大会でスカウトの目に留まり、当時阪神タイガースのシニアディレクターを務めていた星野仙一さんの推薦もあり、2007年の高校生ドラフト3巡目で阪神から指名を受け、プロ入りを果たす。プロ入り直後のときのことを「昔から阪神ファンだったので、一緒に練習する人や教えてくれる人が、好きな選手ばかりだったんですよ。本当にひとりのファンとしても感動しましたね」と振り返る。だが、右肩の古傷もあり、2009年には育成選手としての契約になるなど、順調な野球人生ではなかった。2010年には支配下選手に再登録され、打撃こそ高いレベルでも食らいついていけるほどの手応えを感じつつも、守備や走塁面など、プロのレベルの高さを実感しながらシーズンを過ごす。思うような結果が出せない日が続き、2014年に自由契約。代打でプロ初打席初本塁打という史上13人目の記録を達成し、12球団合同トライアウトでもバックスクリーンへの本塁打を放つなど、ファンの記憶に強いインパクトを残しながらも引退することを選択した。
自由契約後は「もう野球はやめよう」と、セカンドキャリアの道を模索。海外留学や会社勤めなどの経験を積んでいたが、さまざまな縁があり、2017年2月から小・中学生、大人を対象にした「Links野球教室」を開催。指導者になるというビジョンは全然描いていなかったようだが、やはり野球が好きなのだろう。指導者として野球と再び関わるようになる。自身を「感覚タイプ」と話す森田さんは、実際に指導する中で、教えることの難しさを感じることも多いのだとか。「妻から主語が足りていないってよく言われるんです(笑)」とのこと。だが、根気強く丁寧に教えることを心がけ、参加した子どもたちから「楽しかった」とか、保護者から「この前、打てたんです」という声をかけられることもあり、教える喜びを強く感じられたそう。
そんな生活の中で、ひとつの転機が訪れる。岡山県で開催された「タイガースOB野球教室」に参加したときに、球団のスタッフから、阪神タイガースが兵庫エリアで開催している「タイガースアカデミー ベースボールスクール」を、岡山でやってみないかと声をかけられたことだ。コロナ禍で、想定のスタートから遅れたものの、縁があって関西高校のグラウンドを使わせてもらえることになり、2021年1月に開校。縦じまのユニフォームに袖を通し、岡山校の初代専属コーチを務めている。
目下の目標は、「小学6年生の実力のある選手たちで結成された『阪神タイガースジュニア』に、岡山から選手を送り込むこと。そして甲子園に出場したり、プロに入ったりしてくれるような子が出てくれたら最高ですね」と話す。「中学生時代に野球教室で教えていた子が、去年岡山県予選の準決勝に出たんです。その試合を自分が解説させてもらって、すごく感慨深いものがありました」。きっとこういう経験を、今後幾度となく味わっていくのだろう。「タイガースアカデミー」では、いろんな子に声をかけながら、明るく優しく接している姿が印象的だった。技術を教えるというより、自分が大好きな野球を、子どもたちにも大好きになってもらいたい、そんな思いが伝わるような姿だった。いつの日か、森田さんの野球教室や「タイガースアカデミー」岡山校出身のプロ野球選手が出ることを心待ちにしたい。
(タウン情報おかやま2021年7月号掲載より)
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