岡山市出身で、パリを拠点に活躍されていた洋画家・赤木曠児郎先生。
エッセイ「Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出」を『オセラ』にご寄稿いただいておりましたが、去る2021年2月15日に、ご逝去なさいました。
このコーナーでは、赤木先生を偲び、本誌で掲載されたエッセイを1編ずつ紹介していきます。ご功績を振り返り、在りし日のお姿に思いをはせてみませんか。
※掲載文章は連載当時のものです
《第4回》もう少し東京の頃
「ドレメ式」「文化式」「伊東式」「田中式」なんて言葉を知っている人は、第二次大戦後の洋服通だ。
お茶や、お花に流儀があるように、平面裁断で婦人洋服を作っていた時代の洋裁店の系列である。
全国の洋裁学校は系列ごとに縄張りがあり、機関誌として洋裁雑誌を発行。海外の情報が一番早く取り入れられていた頃でもある。
勤めていた婦人帽子店『ベル・モード』に届く海外のファッション雑誌を見て、どうしたらこんな服が作れるのだろうと、ため息をつき、夢見ていた。
私はお茶の水の文化学院のデザイン科、長沢節のスタイル画教室、渋谷のプロ・カッティング教室、飯田橋の日仏学院などに籍を置き、家内は山脇服飾美術学院の手芸科、女優・小暮実千代さんのチャームスクール、日仏学院にも夜学で通っていた。
日仏学院はフランス政府の学校だから、いつかフランスに行けたらと機会を探していた。
戦後の日本はまだ発展途上で、先進国からの援助を受けながらカツカツで生きているありさま。国に外貨が欲しく国民の海外旅行など問題外。
中小企業で社長が海外出張というと、会社でバスを仕立て全員で羽田まで見送りに行くような時代だった。学生として海外留学を目指すしかなかった。
当時は科学技術庁がすべての海外留学を管理していて、年に数回試験をしていた。
お金のもらえる給費留学生は学閥の縄張りで、試験の前に合否が決まっているような状況。私費留学生というものだけが可能らしかった。
東京オリンピックを翌年開いたくらいだから、日本にも少し外貨のゆとりができていたのだろう。美術研修目的の私も合格した。
家内は、「経済的にも不可能だし、一人で行って来なさい」とあきらめていた。
しかし説明するのが面倒だし、一緒に見ておいた方がよいというのが私の考え。それで試験を受け始めたのだがなかなか通らず、ここで受からなかったら私の許可も期限切れで無効になる、というギリギリで合格した。
それから渡航方法を探した。飛行機は南回りで2日間かかり、フランス客船の定期便なら1カ月。どちらも運賃はほとんど差がなかった。
荷物は船の方が沢山持てて、何より留学期間が往復2カ月延びる。あの頃は留学期間の長さも大切だった。
友だちの縁はありがたく、日仏学院のクラスの同級生で、日本郵船社員の人が、窓のないキャビンながら2人部屋二等船客の空き室を紹介してくれて、すぐに申し込んだ。バタバタ準備をして、銀座の『文藝春秋画廊』で個展も開いた。
フランスに行くのなら励ましに、と飛び込みで買ってくださる方まで現れて、画廊のマネージャーをびっくりさせた。絵を届けたら、野村不動産の社長さんだった。
とにかく船に乗って横浜港を出港したのは、1963年3月16日。
木下惠介が監督した『喜びも悲しみも幾歳月』という、灯台守を主人公とした映画がある。その最後に私が乗ったのと同じ定期客船「カンボジヤ丸」が登場するので、いつも感を新たにする。
『ビクトワール通り65番地』
(油彩/116×89cm)2017年
パリの有名百貨店の裏手にある、現在は静かな通りの建物。1880年代半ばの建物だから130年は経っているが、先年大改装されてピカピカになった事務所ビルである。これが建てられた当時、日本人画商・林忠正氏が初代店子として画廊をオープン、20年ばかり続いた。昨年から盛んに日本で言われた「ジャポニスム」発祥の時代の中心地だったわけだ。当時はここの画廊だけで、日本から輸入された18万枚近い浮世絵が販売されていた記録が残っているというから、大変な日本美術ブームだった。現代のマンガブームの先触れのような話だ。
赤木 曠児郎(あかぎこうじろう)
洋画家。1934年、岡山市下田町(現・岡山市北区田町)生まれ。
第2次大戦後、岡山市東区西大寺で暮らす。岡山大学理学部物理学科を卒業して東京へ。
その後フランスに渡り、現在はパリ在住。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。輪郭線を朱色で彩った独特の画法が特徴で、「アカギの赤い絵」として名高い。
40年以上描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても評価されている。
ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。そのほか、フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞なども受賞。
またファッション記者としても活躍し、プレタポルテを日本に初めて紹介。ジバンシイやバレンシャガなどの多数のブランドが初めて日本の百貨店に出店する際にも橋渡し役として活躍したことでも知られる。
2021年2月永眠。
オセラNo.99(2019年4月25日発売)掲載より
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