岡山市出身で、パリを拠点に活躍されていた洋画家・赤木曠児郎先生。
エッセイ「Bon souvenir ~パリで紡いだ思い出」を『オセラ』にご寄稿いただいておりましたが、去る2021年2月15日に、ご逝去なさいました。
このコーナーでは、赤木先生を偲び、本誌で掲載されたエッセイを1編ずつ紹介していきます。ご功績を振り返り、在りし日のお姿に思いをはせてみませんか。
※掲載文章は連載当時のものです
《第2回》デザイナ
わたくしの国民学校時代は、男性は詰襟の国民服、女性は着物を解いて手縫いしたモンペ姿の頃だった。
バーゲンばかりの今では考えられないことだが、敗戦後の復興期、町の商店街には布地屋を売る店がたくさん並び、デパートの階も布地の反が積まれて場所を占めていた。
現在のようなブティックブランドが立ち並んで、出来上がった洋服を見取り選り取りする時代ではなかった。
布地を求め、布を持って洋裁店に行って相談して仕立ててもらうか、自分で縫わなければならなかった。子どもたちや家族の服をお母さんが上手に縫い上げると、家族中で喜んだものだ。
いっぽうで、どんな形の洋服にしたらよいか、相談にのってくれるのが「デザイナー」だった。
「先生、先生」と呼ばれる憧れの華やかな職業で、今でも小津安二郎の名作古典映画などによく登場していて懐かしい。
どちらにしろ、衣料配給切符制の時代が終わり、衣食住のなかでまず着るもののお洒落ができるのが嬉しかったことを覚えている。
義務教育の中学や高等学校を卒業すると、女性は家事の手伝いをしながら嫁入りまでの期間を待ったものだから、町にたくさんできた洋裁学校や塾に通って、洋裁の縫物を覚えておくのも花嫁修業のひとつだった。
敗戦後アッという間に洋裁学校が誕生して、岡山県にも80校ほどあった。県庁の指導で岡山県私立洋裁学校連盟もでき、若い女性が集まり盛んだった。
終戦後30年くらい続いた日本の光景で、わたくしの母の開いていた洋裁学校も、そんな中の一軒だった。
それから、だんだんと既製服を作る産業が発達して、ブティックが並び、着るものを自由に選ぶ風習が定着し、商店街から布地屋さんが消え、洋裁店も洋裁学校も消えてしまった。
考えてみると、わたくしがファッションに興味を持ち、洋服や婦人帽子のデザインの仕事を手がけ始めた頃が、お仕立てのオーダーデザイナー最期の最盛期だったのだ。
男性では中村乃武夫さんや久我アキラさんが人気の中心だった。
芦田淳さんが亡くなったと、先日ニュースに出ていたが、もう60年も前なのかと思う。
それから2、3年後の世代になると、高田賢三、三宅一生、山本寛斎などがいた。デザイン画で、既製服の製品を作って勝負する時代になっていった。
丁度端境期の谷間のような時期の東京での生活だった。社団法人日本デザイナーズクラブ、社団法人日本デザイン文化協会など、たくさんの洋服デザイナーが集まる大きな団体があった。
春夏と秋冬の年に2回、会員デザインの作品発表ショーを、布地メーカーの提供生地をバックに華やかに開き、日本全国に支部を持ち君臨していた。
師匠の筒井光康は、NDKという略称の日本デザイン文化協会の創立理事だった。戦前のパリで修業してきていたのだからなかなかの顔役で、わたくしも弟子で出入りしている間に、正会員洋服デザイナーになっていた。
日本婦人帽子協会の方も正会員になっていたが、こちらは筒井が会長だった。やはり母が洋裁学校を開いているというバックが大きかったが、自分でデザイナーをやるには手が要る。
それが家内だった。
『エッフェル塔(Ⅵ)』
(油彩/100×73cm)2015年
「日仏会館」(東京・恵比寿)蔵
第1回で紹介した作品は、素描原画と自分で呼んでいる、毎午後パリの街に出て、ペンとインクでデッサンし彩色までしている作品である。長年日課として続けて500点以上になる。そうした作品のひとつを手許において見ながら、今度はアトリエでキャンバスの上に筆で描いて、アカギの油彩作品は出来上がる。エッフェル塔はあまりにも有名な、1889年のパリ万博のために建てられた記念鉄塔で、120年経った今も健在。観光客の人気を集め、毎日切符売り場には長蛇の列である。
赤木 曠児郎(あかぎこうじろう)
洋画家。1934年、岡山市下田町(現・岡山市北区田町)生まれ。
第2次大戦後、岡山市東区西大寺で暮らす。岡山大学理学部物理学科を卒業して東京へ。
その後フランスに渡り、現在はパリ在住。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。輪郭線を朱色で彩った独特の画法が特徴で、「アカギの赤い絵」として名高い。
40年以上描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても評価されている。
ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。そのほか、フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞なども受賞。
またファッション記者としても活躍し、プレタポルテを日本に初めて紹介。ジバンシイやバレンシャガなどの多数のブランドが初めて日本の百貨店に出店する際にも橋渡し役として活躍したことでも知られる。
2021年2月永眠。
オセラNo.97(2018年12月25日発売)掲載より
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