豊かな土壌や資源、すぐれた伝統文化を有する倉敷市。かつて江戸幕府の天領として繁栄してきたこの地には、世界に誇る地場産業が今も大切に受け継がれています。
暖簾を守り、伝統を受け継ぎながら、時代のニーズにも果敢に挑み続ける倉敷の老舗を、3回にわたってご紹介します。
第2回目となる今回のテーマは「繊維のまちの老舗」。
世界に誇る倉敷の繊維産業は、長い年月をかけて培われた技術とたゆまぬ努力によって紡がれてきました。この産業を支えてきた老舗を、日本遺産のストーリー「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」とともにご紹介します。
綿花・イ草栽培から始まった繊維産業発展の軌跡。
2017年に文化庁から日本遺産に認定された「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」。
地域の発展と日本の近代化に大きく貢献した倉敷の繊維産業発展のストーリーは、大規模な新田開発が始まった江戸時代にまでさかのぼる。
約400年前まで「吉備の穴海」と呼ばれる広大な浅海だった倉敷の平野部。干拓により陸地となると、塩分を含む新田でも育つ綿花やイ草が盛んに栽培されるようになった。
香川県琴平町の金刀比羅宮との両参りで信仰を集めた倉敷市児島の「瑜伽大権現(ゆがだいごんげん/由加山)」の門前町では、その木綿で作られた真田紐や小倉織が土産物として評判を集め、児島を中心に織物業が発展。
倉敷は1642年に江戸幕府の直轄領である、いわゆる「天領」になると、政治の中心地になるとともに「備中綿」をはじめ備中南部の物資の中継地として栄え、繊維産業の礎が築かれていった。
明治時代に入り、1880年には国内初の民間紡績所である児島の『下村紡績』、その後、玉島の『玉島紡績』が創業。1888年には倉敷代官所跡に、イギリス式の最新の機械を備えた『倉敷紡績所(現クラボウ)』が創設され、倉敷の繊維産業は隆盛期を迎える。
1878年には、倉敷市茶屋町の磯崎眠亀(みんき)がイ草で最高級の花ござ「錦莞莚(きんかんえん)」を発明。花ござは国の輸出十品目にもなり、伝統産業として脈々と受け継がれていく。
技術を集約し、足袋や学生服、国産ジーンズの製造に着手。
繊維産業の発展とともに育まれた紡績や撚糸、染織、縫製技術は、時代に伴いさまざまな衣料品の製造に応用された。
明治時代中期導入された動力ミシンにより、足袋の製造は全盛期を迎えたが、大正時代になると洋装化に伴い需要が減少。いっぽうで学生服の需要が急増し、足袋の裁断・縫製技術を生かして学生服が作られるようになった。昭和初期には全国の生産量の9割を児島産が占めたという。
倉敷市児島に本社を構える『日本被服株式会社』や『明石被服興業株式会社』は、当時から学生服製造の先駆けとして業界をけん引。技術やノウハウを更新しながら未来を見据えたものづくりに励む。
学生服生産の技術を生かし、1965年には児島で日本初の国産ジーンズが作られ、今では「国産ジーンズ発祥の地」として注目される。テキスタイルメーカー『株式会社ショーワ』が手がける高品質のデニム生地も、国内外のトップブランドから厚い信頼を寄せられている。
世界に誇る「メイドイン倉敷」を作り続ける老舗の原動力。
干拓地での綿花・イ草栽培から始まり、真田紐や足袋、学生服、ジーンズと時代に合わせて発展してきた倉敷の繊維産業。日本製繊維製品のシェアが減少していくなか、独自の技術や一貫生産できる産地の強みを生かし、国内外の市場に挑み続けている。
1888年創業の『株式会社タケヤリ』は、世界でここでしか織れない高品質な厚手の帆布生地を生産。この地で受け継がれる高度な撚糸技術から生まれた帆布は、今も国内生産の約7割を倉敷産が占めている。
また、倉敷の繊維産業の躍進に貢献した足袋を手がける『株式会社丸五』は、作業用・祭り用だけでなく、日常遣いできる新しい足袋型シューズを販売。
真田紐の製造をはじまりとする『角南被服有限会社』は、学生服・作業服の製作で培った技術を研さんし続け、ジーンズの縫製会社として海外からも一目置かれる存在となった。
年間出荷額日本一(※)の「繊維のまち」は、伝統を大切に受け継ぎ、進化し続ける老舗の実直なものづくりと、ひたむきな努力で支えられている。
※「令和元年工業統計調査 繊維工業製造品出荷額」より
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